こんばんは、katkenです!
今回は2020年4月3日金曜日、20時57分~22時57分にTBSで放送予定の「中居正広の金曜日のスマイルたちへ」について書いていきます!
先日、70歳の若さで新型コロナウィルスで亡くなってしまった志村けんさんのスペシャル番組でお届けします。
私もかなりショックでした。
新型コロナウィルスの危険性、恐ろしさを知りましたよね。。
今回の金スマでは、1年前に志村けんさんがめったに語らない人生について語っていただいていたので、それの再放送です!
志村けんとは一体何者だったのか?
それでは志村さんはどういった人物だったんでしょうか?
志村さんは1950年、東村山市で生まれ、3人兄弟の末っ子でした!
お父さんは、柔道をやっていた教頭先生ということで、冗談も中々通じなかった方だったそうです。
確かに、柔道やっている教頭先生という肩書は怖いですよね(笑)
その後、大学には進まず、いかりや長介さんの弟子入りするために待ち伏せをして、荒井さんの脱退を機に見習い志村として活動が始まりました!
しかし!!
荒井さんの穴を埋めることは簡単ではなく、初めは大変でした。
それでも、志村さんは努力をした結果、「カラスの勝手でしょ」「ピカピカの1年生」「ヒゲダンス」などがヒットギャグとして生まれました!
後は「最初はグー」を生み出したのも志村さんと言われています!!
どれも有名なギャグですよね!
そして、伝説的な不動のザ・ドリフターズ世代が築かれていったのです!
師匠・いかりや長介の存在とは?
それでは、志村さんにとって、いかりや長介さんはどのような存在だったのでしょうか?
志村さんは師匠と言っていましたが、「東村山音頭」の誕生は、いかりや長介さんが何気なく志村さんが歌っていたのを聞いて、「舞台でやってみろ」と言われたそうです!
それで大爆笑!
そこから、志村さんはどんどん活躍していくようになり、いかりや長介さんの何気ない一言がきっかけだったのは間違いなかったと思います!
番組で最後に中居正広が、「志村さんにとっていかりや長介さんはどんな人?」と聞かれると、無言のまま涙をしました。
しばらくして、言葉にしたのが、「お笑いって難しいけど、それに向かって一生懸命だった。良かったと思います。師匠として間違いなかったですね」と言ってくださいました。
やはり、志村さんにとっていかりや長介さんは忘れられない師匠なんですね!
志村けん初めて語った人生!1年前、金スマで志村けんが語ってくれた人生まとめ
皆様、いかがでしたでしょうか?
今回は、先日新型コロナウィルスで亡くなってしまった志村さんの1年前の再放送でした。
亡くなって改めて気づかされる志村さんの存在の大きさ。
そして、師匠であるいかりや長介さんとの師弟関係。
どうか、天国で2人で話していたら嬉しいですね!
それでは、また!